The Visionary Who Helped Shape Modern Japan

江川英龍 
日本の未来を見つめた先駆者

約200年前、日本は大きな転換期を迎えていました。
世界が急速に変化する中、多くの人々が過去に目を向けていた時代に、ひとりの地方指導者は未来を見つめていました。その人物が江川英龍です。
富士山の麓、伊豆・韮山を拠点に、彼は新しい知識や技術を積極的に学び、人材を育て、日本の近代化への礎を築きました。
今日、江川邸は単なる歴史的建造物ではありません。
それは、日本が未来へ向かって歩み始めた場所なのです。

江川英龍

800年続く名家

江川家は平安時代から約800年にわたり、この地域を支えてきました、江戸時代には幕府直属の代官として治水、防災、地域経営などを担いました。

しかし江川家を特別な存在にしたのは、その長い歴史だけではありません。
時代の変化を恐れず、新しい知識を取り入れ続けたことにあります。

800年続く名家

時代を先取りしたリーダー

江川英龍(1801-1855)は、日本が鎖国政策のもとにあった時代に生きました。
しかし彼は世界の動きを学び続けました。
西洋技術や科学に関心を持ち、海外の知識を積極的に取り入れながら、日本の未来を考え続けたのです。
現代で言えば、「地方から未来を変えようとしたイノベーター」でした。

富士山画賛
英龍が描いた富士山画賛
外国事情
渡辺崋山に書かせた「外国事情」

未来を変えるのは人材である

英龍が最も重視したのは「人」でした。1842年、彼は韮山塾を開きます。 ここには全国から若者が集まりました。
武士だけではなく、農民や町人も学ぶことができたと伝えられています。
後に日本の近代化を支える多くの人材が、この場所で学びました。
今日でいう「リーダーシップスクール」や「イノベーションアカデミー」に近い存在でした。

入門起請文
韮山塾への入門起請文
塾の間
江川邸内の塾の間
入門書
英龍の高島秋帆への入門書

考えるだけでなく実行した人

英龍は理論家ではありませんでした。行動するリーダーでした。

日本初のパン製造への挑戦

近代的な軍事制度を取り入れようとした英龍は、携行食としてパンの活用を考えた。軍事訓練として伊豆の天城山や江梨山での山猟を行った。この時、パンを携行し、英龍は塾生にパン以外は食べることを許さなかった。江川邸の竃で初めてパンを焼いたのが天保13年(1842)4月12日とされ、昭和27年、全国パン協会はこの日をパンの記念日と定め、英龍は「パン祖」の称号を与えられた。

英龍の手控
パンの製法が記載された英龍の手控

反射炉建設への取り組み

反射炉築造前、天保13年(1842)には韮山の屋敷内に甑炉を用いた青銅製大砲鋳造を始めていた。最初に注文したのは老中水野忠邦である。嘉永6年(1853)、品川沖の台場(海上砲台)建設に取りかかり、台場に設置する大砲を鋳造するため反射炉建設の命令を受けた。初め下田で建設に取りかかったが、嘉永7年韮山に移転、建設開始。反射炉は英龍没後、嫡男、英敏の代の安政4年(1857)11月完成した。実際に稼働し、今も残る反射炉は世界的に見ても類例のない施設で、近代製鉄の産業遺産として世界遺産に登録された。

自砲模型
江川邸内で鋳立てた同型の自砲模型類
韮山反射炉
韮山反射炉(世界遺産)

品川沖台場建設

嘉永6年(1853)6月ペリーが率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に現れ開国を迫った。
オランダを通じてアメリカ船の来航を知らされていた幕府であったが、実際には何の対策もなかった。ペリーの来航により急遽江戸を守る防衛施設として台場建設の必要性が出た。英龍は三浦半島の浦賀と房総半島の富津との間にある浦賀水道を閉鎖することを建議したが、時間的にも予算的にもできないことがわかり、江戸城を守る品川沖台場建設となった。英龍の存命中に完成した唯一の建造物である。

品川沖第三台場
品川沖第三台場

ヘダ号建造につながる海洋技術の発展

日露和親条約締結のため下田に停泊中のプチャーチン率いるディアナ号は、嘉永7年(1854)に発生した安政の東海大地震による津波のため破損してしまい、修理のため戸田に向かった。途中、冬の西風にあおられ富士川沖で沈没。プチャーチンを始めロシア船乗員約500人をロシアヘ帰国させるため、鎖国以後初めての洋式帆船ヘダ号の建造を行った。そして、無事全員をロシア・ウラジオストックヘ送り届けた。

君沢形船
ヘダ号と同型の君沢形船
(『伊豆半島』から転載)

種痘導入による公衆衛生への貢献

長崎で種痘を始めた伊東玄朴を招き、嘉永3年(1850)肥田春安に命じて、天然痘予防のため、最初に英龍自身の子どもに試した。その後北江間の少年にも接種した。様々な事業を行った英龍は疲労が重なり、安政2年(1855)
1月16日伊東玄朴、肥田春安らに看取られて江戸屋敷で生涯を閉じた。享年55歳、満53歳。

種痘記念碑
伊豆の国市北江間にある種痘記念碑

なぜ今も英龍なのか

AIやグローバル化によって、私たちも大きな変化の時代を生きています。江川英龍が生きた幕末も同じでした。
未知の世界が目の前に現れ、何を守り、何を変えるべきかが問われていたのです。
英龍が残した最大の遺産は建物でも技術でもありません。

未来を恐れず学び続ける精神。

その精神は、今も江川邸に息づいています。

種痘記念碑

Experience the Spirit of Transformation

祝い旅では、婚礼文化や祝福の儀だけでなく、江川英龍が未来を見つめた場所で、日本の「伝統」と「革新」の精神に触れることができます。
富士山を望む歴史空間で、あなた自身の人生の節目を見つめてみませんか。